新井四兄妹田んぼ
はじまり
「田んぼをやりたい人いませんか?」2009年春、子育て仲間から頂いたご縁により、大家の土方さんから休耕田をお借りすることになりました。最初はトラクターも、草刈り機も使わずに全てが手作業。畔もなくなっていた耕作放棄地に畔を盛り、水路からの取水口を作り、果たして田んぼは出来るのだろうか?はじめて用水路の水を入れた時のドキドキはよく覚えています。水は溢れないか?畔は決壊しないか?
期待と不安の中、手探りの一年目。幸いにも多くの方の助けをお借りして、田植え、収穫、天日干し、脱穀、籾摺りと、一連の稲作作業を行うことができました。
新井四兄妹田んぼ
2010年
翌年、さらに2枚の田んぼを復活させました。初年度に出来た田んぼを「長男」田んぼ。2年目に生まれ、用水路に隣接した管理しやすい田んぼを「次男」田んぼ。
同じく2年目に生まれ、水位が低く、排水がしづらい手間のかかる田んぼを「三男」田んぼと名付けました。
作業量が増えるとともに、関わる仲間も増えてきて「たんぼのわ」がひろがりはじめました。
太陽と 日野の用水 日野の大地
農薬はもちろん、一切の肥料も使わずに育てる自然栽培の稲作。そこから与えられる恵みは収穫物だけでは無く、とても多くのものがありました。
2011年
3年目、更に一枚の田んぼが仲間入り、一番面積の大きい「長女」田んぼの誕生。水位の高い「長女」田んぼから水位の低い「三男」田んぼへ土の移動作業も行う。みんな付き合ってくれてありがとう。暑い日に行ったあの作業が一番キツかった。厳しかった。と言うのも、今は笑い話に…
世代を超えて、立場を超えて、一緒に行う単純作業。一緒に味わう達成感。子どもと大人が一緒の場で、それぞれ楽しくやっている。田んぼの世界はとてつもなく大きくて、誰でも、何でも受け入れてくれる。
だからみんながいつもより、おおらかに時間と空間を共有できる。
これがとても心地よい…
そして、2011年の原発事故。
田んぼの土と、お米の放射性物質を調べたが、日野市の田んぼにも放射性物質が降り注いだことがわかった。
いろいろな意見があると思うが、今よりももっと水や田畑がきれいになるように、出来ることをしていこうと思う。
2009年に初めての田んぼ作り、2010年に2枚の田んぼを増やす。2011年に1枚の田んぼを増やす。2012年は自家採種による苗づくりへチャレンジした。
日野で育った種は、この土地と、この水と、ここの太陽を記憶して、さらに関わる私たちのことも記憶して、次の世代へ命をつないでいく。
2012年〜
古代米の緑米、黒米の苗をいただき、収穫することができた。緑米の長く美しい稲穂は、お正月の注連縄飾りに最適だった。2013年から全量のお米を自家採種することになる。少しづつ地域の方にも理解され、認知されてきた。稲穂が実り案山子が立つ。田園風景は多くの方が懐かしさや、安心感を得るのだと思う。
私の中にもある子供のころの田園風景の記憶。これからの子どもたちの心にも残っていてほしいと思う。